はじめての資産運用 資産運用基本講座
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アクティブ運用について
市場には非効率な面が残されており、適切に情報を収集し分析すれば市場平均(日経平均株価・TOPIX等)以上の運用成果を実現することが可能であるとの考え方に基づき、積極的に市場平均を上回る収益の獲得を目指す運用のこと。
(⇒パッシブ運用)
株の点では、アッシュル市が極めて重要な意味を持った。この頃には既にアッシュルの神格化は完全に進んでおり、この都市名を記述する時には神を意味する限定詞ディンギルが付された他、地名を意味する限定詞キが付された場合や、限定詞無しの場合でも、同じようにアッシュル神を指した。そして、アッシュル市ではアールムと呼ばれる市民会の決定が重要視され、その決定は遠くアナトリア半島などの商業拠点にも伝えられていたが、そのアールムの議長を務める役職として、リンム職がエリシュム1世によって初めて設けられ、アッシリア政治制度の根幹が完成された。
この時代のアッシリア王は、その称号としてアッシュルの副王を名乗っており、神格化された国土アッシュルと人間との関係を祭礼によって仲介することで市の繁栄を保障する役割を負った。また王は同時に商人達の統率者であり、監督官(ワクルム、新アッシリア時代にはウクル)と言う称号を用いて司法権を行使し商業上のトラブルを治めた。
株には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人、シャムシ・アダド1世の存在が極めて重要である。彼はアッシリアにシュバト・エンリル市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。紀元前1750年頃以降の時代は、文献史料も見つかっておらず、中アッシリア時代に入るまでの歴史は殆ど明らかになっていない。アナトリア諸都市に設けられたカールムなどの商業拠点もヒッタイトの台頭によって破壊されたと考えられており、この時代の終わりとともに戦火によって廃絶している。
ipoにとって取り分け重要だったのはロバを用いたバビロニアとアナトリアの間の中継貿易であり、その拠点として作られたカールムの一つカネシュ(現キュルテペ)からは、当時のアッシリア商人達が残した商業文書が多数発見されている。アッシリア商人は、バビロニア産のヒツジの毛織物や、ザグロス・バクトリアの錫をアナトリアで売買して利潤を得た。ことに青銅器の急激な普及によって、その製造に必要な錫の需要が高まっていたことは、アッシリア商人が躍進した原因の一つである。アッシリア商人の活躍したアナトリアでは銅鉱石は産するが、錫の鉱床を欠いていたのである。そしてこの交易ネットワークは高度に整備されており、商人の分業も進んでいた。アッシリア商人達は、各都市に常駐する情報収集者を通して、為替相場(金、銀、錫などの交換レート)情報に気を配り、個人投資家から委託される形での資本運用さえ行っていた。ナルックム(袋の意)と呼ばれる長期の資本運用契約に関する文書史料が残存している。またこういったアッシリア商人達は、諸外国や、別の商人との間で商業契約を多数結んで自らの利益を確保しようとした。
個人向け国債の拡大はアッシリアに多くの富を齎したと考えられる。この時代、アッシュール市の城壁は数度にわたって造営が繰り返され、頻繁な建築活動が行われていたと考えられる。王碑文などの文献史料も飛躍的に増大し、商業活動のために文字は急速に普及した。特にアナトリアのカールムであるカネシュ(現キュルテペ)からは膨大な数の商業契約文書や備忘録のようなものが発見され、当時の商人の生活を生々しく知ることができる。
シャムシ・アダド1世の王国が崩壊して以来、小規模勢力に過ぎなかったアッシリアが、有力国として台頭するのがこの時代である。中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる。当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が君臨していたが、ミタンニを打倒したことによってその遺領を獲得し、バビロニア、ヒッタイトとも戦って勝利を収め、アッシリアはオリエント世界に確固たる地位を築いた。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代には、はじめてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。だが、彼の死後は政治混乱によって勢力が減衰し、ティグラト・ピレセル1世の時代には一時回復したものの、中アッシリア時代の後半にはアラム人の侵入によって国内が混乱しアッシリアは混乱期に入ったため、残存史料も少なく、政治史の復元が困難になる。
この時代のアッシリアの経済的基盤は、主に穀物類の栽培や牧畜などの農業生産にあったといわれる。急速に拡大する領土にあって、経済も変化したと考えられるが詳細はよくわかっていない。
資産運用と呼ばれる法律文書が作成されたのもこの時代である、これは発見されている中ではアッシリア最古の成文法である。女性に関する規定が多いことで知られ、女性保護の要素があると言われる場合も多いが、少なくても現代的な人権思想をそこに投影するのは危険である。この法典の中では、男性が女性に対する際に取るべき作法や取ってはならない行動が規定されているほか、女性の衣服についての制限、(ヴェールで頭を隠すなど)が規定されている。女性の衣服制限についてはその女性が属する階級によって細かくわかれており、既婚、未婚の女性や上流階級の女性はヴェールを着用しなくてはならなかったが、逆に女奴隷や娼婦はヴェールの着用を禁止されていた。これは根本的には男性の保護下にある女性とそうでない女性の判別を目的としたといわれ、婚姻に際しては新郎が新婦にヴェールをかぶせるという儀式が行われた。
中アッシリア時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服は、バビロニア文化をアッシリアに齎した。王号の中には「エンリルの代官」や「世界の王」などバビロニア風の称号も加えられたほか、バビロニアから戦利品として齎された芸術品や書記達は、アッシリア文化に著しい影響を与えた。代表的なものが『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』に代表される叙事詩編纂であり、バビロニア文学の影響を著しく受けた物である。
またアッシュール神をシュメールの神、エンリル神と習合させるなどの動きがあった。エンリル神の神話がアッシュール神のものとして再編成され、最高神として位置づけることが試みられた。このほか、本国を構成する州がアッシュール神に対する共通の宗教儀礼を執り行うことによって結びつきを強めるなど、宗教面の整備が進んだ。
アッシリアの勢力圏の変遷アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表(概要を参照)、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。アッシュール・ダン2世・アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。彼の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにバビロニアでは反乱が発生し、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がった。この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。